美食と人
「美食」とか「美味しいもの」という概念や価値は人それぞれに違う。
焼肉、てんぷら、寿司、ラーメン、料亭の料理、フランス料理、ホルモン焼き、などどんなカテゴリーでも
その人が好みや情熱を傾ける嗜好と合致すれば、どの分野でも美食家は成立する。
それから和食が好き、だと言っても、関サバや厚岸のカキとお取り寄せが良い人もいれば、その産地に出向き
そこで新鮮なものを食するのが贅沢だと言う人もいるし、総合的な提供された流れを重んじる人もいれば、一杯
の蕎麦に美徳を感じる人もいるだろう。
また、同じ人であれ、その時と場合により欲求はことなるだろう。
しかしながら最近、物や店の価値をただの素人が誰でも評価や点数をつけるサイトが多くなり、これを見ていると残念で悲しい思いになる事がよくある。
多くの一般受けを市場に向けて評価を得たい店や企業には、とても参考になる資料かも知れないが、自己の主張や情熱を愛情をもって市場に向けている人も居り、これらに勝手に評価を書き込む人は、自らどれだけの経験が
試されているかを自身で認識する必要があるだろう。
例えば、ある宿泊施設が、朝食に情熱を傾けて、朝から施設も人も稼働させ、その場でその一客の為ごとに料理
をこしらえて提供している施設がある。
つまり最近当たり前になってきた出来合いの料理を裏方が少人数で温め直すのではなく、担当者がそのお客を見ながら好みを出来立ての料理(それもオムレツとかでなく、手を掛けた料理)でもてなすという志向だ。
つい、そこの評価サイトが目に入ってしまったら、驚くことがたくさん書かれていた。
もちろん良い評価をしている人も多く居たが、「朝食は溢れんばかりのパンやおかずで一杯にしないなんて、宿の経費節減が露骨で考えもの」「品数が少ない感じがして贅沢感が無い」というニュアンスがいくつか書かれて
いた。
もちろん人の好みは自由である。
しかし、残念なのは、それらの意味を「受け取れない(読み取れない)心」にある。
これも心は自由かもしれないが、どれだけの人が見るかわからないものに、その「人の思い」を感じれずに批評として公表するとは。
手作りのパンや料理にお菓子、何でも数はそうは作れない。それをおもてなしの心や愛情と汲みとれず、既製品が沢山並んでいることに贅沢感を感じ、批評し公表するとは、なんと恐ろしい社会になっているのだろう。
どうやら私達の陥っている社会の悩みには、こうして「もてなされる側」の準備と「もてなしをマニュアル化」してしまった背景、つまり人と同じものを良しとする志向が良きも悪きも標準評価になってしまった評価を恐れるあまりの実態がある。
それになれてしまった時、自己の判断や価値が出来ずに、無難という評価基準が最善の救いとなってしまった。
また企業もそれに従い、工夫は向上でなく、幅を拡げることに繋がってしまった。
美食という評価や価値は、確かに人それぞれでいい。
しかし、美食とは「皿の上だけに非ず」。
そんな一つだけでない要素の中に、実は人の心、そこに「もてなし」という美を感じて組み込めるゆとりが
世の中の基準の量り方になってほしい、と思う。
2013年6月17日
小澤桂一
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